日々破戒して

YARE YARE というバンド、ラップをやっている

父とダム

 

実家から車で20分ほどの巨大ショッピングモール内にある、スターバックスにいる。実家暮らしが始まって数日だが、早くも密閉空間に押し込められた苦痛と孤独に頭がおかしくなってきたので、「人々の営みを眺めたい」と母に直訴したところ、「イオンに行け。あそこには人間がたくさんいる。しかしそのまえにテレビを見ている父とドライブに行け」と御達しが出、しぶしぶ車を出した。父と私は実家にいる際よくこういったことをする。父は定年をすぎ、月に数日だけの出勤なので、時間がある。同じく私も定職を持たず友達もおらず身を持て余しているので、互いの暇つぶし相手として適当なので仕方なく行くのだ。誰が好き好んでいい歳をした親子が二人でドライブなどするものか。私はけっこう好きだ。父は何気に知識豊富で、時事問題や地理、スポーツなどあらゆるジャンルに精通してる感あり、車を走らせながらふと気になったことを聞くと、大抵のことには答える。「あれは、杉の木だろうか」聞くと、「杉の木だ。近頃は土砂崩れなど増えているが、杉の木を植えるために切り落とした広葉樹と違い、根が横に伸びるため、増水すると簡単に流されてしまい云々」と、私が最近人に聞き知ったことをすらすらと話し始めるので、驚く。あるいは定年後の父というのは我が家に限らず世の荒波にもまれ長く生きるうち知らぬものなくして子に聞かれれば答うるものなのだろうか。もしくは私が哀れにもなにもしらぬまま成人した愚図なのか。

 

30分ほど走らすと、ダムに到着した。車を止め降りると、むしむしとした夏の空気が体にまとわりついた。港で聞くような鳥の声がしたので、「これはカモメだろうか」と聞くと「こんなところにカモメはいない。恐らくトンビだろう」と答える。見上げると山の近くを茶色いワシのような茶色の鳥が青を背景に三羽ほど悠々と旋回している。ではチュンチュンと可愛らしく鳴いているあれはなにか、と眼前の木を指差し尋ねれば、あれはメジロだと言う。先の放浪の旅で逗留した和歌山では、宿泊場であった丘の上の道場に始終うぐいすの声が鳴り響き、風は両側の窓から抜け、正面には仏像彫刻が一列に並び、正に天国の様相であったが、その時を懐かしく思い出した。私はすでに実家デジダル暮らしの中で心身を蝕まれ病みつつあるのだ。鳥の声を聞いていると、今にも爆裂しそうな脳細胞が弛緩していき、手足が少し軽くなったような気がした。

 

ダムの方に行く。対岸では汚いボートが打ち捨てられている。ダムは複雑に入り組み、ボートを使えば渓流のように奥深く樹木の鬱蒼と生い茂るところまで入ってゆくことも出来そうである。一般の人もボートに乗れるのだろうか。仮に乗れるとして、父と二人きりで誰もいないダムを漕ぎ漕ぎ楽しむのに積極的にはなれない。

すぐ下を見下ろすと、塔型の管理所のようなところから僅かに出ている際どい足場に、キャップをかぶり竿を持った人が闖入してゆくのが見えた。

 

「あれはバス釣りだな。」

 

バス釣りか。確かに漫画で、ああいう場所に入ってゆくのを見たことがある。」

 

「このダムに来る奴らは、大体バス釣りだ。日本釣りの人は隣のダムにゆく。」

 

「なるほど。バス釣りのなにがいいのだろうか。」

 

「ルアーに食いつくのは、日本の魚にはごくわずかしかいない。○○と○○など」

 

「そうか。ルアーを使いたくてバス釣りをするのか。」

 

「あれはあれで奥深い。ルアーに魚が反応すると云々」

 

 

私は質問しておきながら、他のことを考えていた。こういうことがよくある。頭がトリップしてしまって、意識を目の前の事に集中できないのだ。父がこちらを見ている。私は既にダムに飽き始め手すりから離れ一段高いところに居たので、父の頭が見えた。父は年の割に髪の毛に量があり、真っ黒であったのだが、改めて見ると、白がだいぶ混じるようになっていた。鼻の下に蓄えていたBOSS缶コーヒーのラベルのおじさんのようなヒゲも、以前ほど覇気がなく見える。何か言わなければいけないと思い、会話の流れからして不自然でない質問を新たにする。

 

 

 

「バスは外国の魚だろう。誰かが放流してバス釣りが広まったのか。」

 

「逆だ。バス釣りをしたい奴が自分の住むところの近くで釣りがしたく、勝手に流した。」

 

 

 

私は満足し、歩き出した。父もついてくる。ダム沿いの、村に入ってゆく道を歩くことにした。ダムは細長く、この道を歩いてゆけば反対の方に出る筈である。辺りを見渡すと、もう人が住んでないであろう家がまばらに建っている。原っぱではたんぽぽやすすき、名前の知らぬ垂直に伸びる草が生えている。人の手が加わっていない場所特有のしんとした静けさがあり、鳥や蝉の鳴き声と、時たま思い出したように通り過ぎる車の音の他、何もない。もしざんぎり頭のキッズが着物を着て走り回っていたら、さぞ愉快だろうと思う。田舎のメルヘンに見とれていると、ここはもともと田んぼであったが、耕す人がいなくなったのだろう、と父が言う。

 

少し進むと、木々に囲まれる道に入った。道脇の斜面に、大きいみかんのような果実のなる木が生えている。私は晩年のゴッホの絵画を連想する。これはみかんだろうか、と聞くと、はっさくだろうと言う。反対側には青と白のトタン屋根の朽ち果てた家があり、軒下の雑草の間をトカゲがするすると這っているのが見えた。家の造りからして、昔は商店か何かであったのだろう、と父は言う。灰色の羽根に、黒の斑が入った蝶々が目の前の蔦に止まったので捕まえようとすると、それはシジミだと言う。「貝?」「いや、蝶の名前。蜆みたいだろう。」確かに貝のような灰色をしている。

 

 

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 木々に囲まれた道を抜けると家屋からタンクトップ一枚のおじいさんが出てき、軒先でしきりに腰を曲げ隣人らしき人物に挨拶していた。じろじろ見ていると目が合ってしまい、前を向き直すと、床屋と駄菓子があった。青赤白のラインのポールがまわっている。駄菓子屋はヤマザキのようだ。昔はこの辺りも人通りが多かったのかもしれない。杖をつくおばあさんがこちらを見て挨拶してくれたので、私も「こんにちは」と返した。

 

そうしてそのままわれわれは歩き続けた。それ以降誰とも会わなかった。ただ家と家の間を歩き、竹やぶの前の原に集うカラスについて話したり(カラスとゴキブリは可哀想だ)、誰かの家の建築や自家畑を評価するなどした。古き良き日本家屋、といったら余りにステレオタイプだろうか。畑を飛ぶとんぼを見てあれは赤とんぼではないかと私がいうとそれは季節的に早すぎる父は言った。庭を覗くとどの家も井戸がある。そしてその周りには草が生え木漏れ日が静かな夏をそこに讃えていた。小さな羽虫が自由に飛び回っている。私は羨ましかった。家の中にこのような静けさと清涼感に満ちた空間があったらどんなに良いだろうか。我が家の前は車の通りが激しく、庭に出ればたちまち騒音に包まれる。辺りを歩けば他に散歩する人なく変人扱いをされてしまう。一体どこで疲れた頭を休めればよいのか。わたしは閉じ込められた犬。ワンちゃん。本当は外に元気よく飛び出したい。遠いアラスカを駆け回りたい。大自然と一体化し、過去から今そして未来へと無限に広がる時間軸の上で静かに午睡したい。だがそれは叶わない。いや、きっと叶えよう、…。

 

 

「そろそろ引き返そうか。これ以上歩くと、戻るのが大変そうだ」

 

 

道はこのまま村の奥へと続いており、ダムは完全に見えなくなっていた。われわれは引き返し、家まで車を走らせた。車の中ではオリンピックなど時事問題について話した。ラジオからは水曜日のカンパネラの桃太郎、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのスカー・ティッシュが流れた。